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三浦按針の墓
長崎県平戸市大久保町三浦按針ことウィリアム・アダムスは江戸時代初期に日本にやってきたイングランド人で、徳川家康に重用されたが帰国することは許されず、元和6年(1620年)平戸の地で没した。
三浦按針の墓は崎方公園の...
龍造寺隆信の供養塔(沖田畷古戦場跡)
長崎県島原市北門町龍造寺隆信は佐嘉の戦国大名であった。天正12年(1584年)反旗を翻した日野江城の有馬晴信を討伐するべく大軍を率いて島原半島へ上陸、有馬氏は薩摩の島津義久に援軍を求め、義久の弟島津家久が合流する。この...
長崎甚左衛門純景の墓県史跡
長崎県西彼杵郡時津町浜田郷字小島田長崎純景は代々長崎の地の国衆を務めた長崎氏の当主で、大村純忠に従っていた。代々の所領が天領となったとき、長崎氏は大村氏によって替え地として時津七百石を宛がわれたがこれを受け入れず、久留米の田中吉政に仕...
対馬藩お船江県史跡
長崎県対馬市厳原町久田対馬藩宗家のお船江で、現在の遺構は寛文3年(1633年)に造成されたものと云われる。
対馬藩お船江は厳原港の南にある久田湾に面したところにある。北西の県道から細い道を入った所、船江の南側に案内板...
少弐嘉頼の墓(太平寺)
長崎県対馬市厳原町中村(太平寺)少弐嘉頼は少弐満貞の子である。永享5年(1433年)少弐満貞は大内持世との戦いで敗れて討死すると少弐氏は没落し、嘉頼は家臣とともに宗家を頼って対馬へと落ちてきた。元服して嘉頼と名乗ると、宗貞盛は三根に...
宗重尚の墓
長崎県対馬市厳原町内山(木武古婆神社)宗重尚は対馬島主の初代とされ、寛元3年(1245年)に対馬在庁の阿比留平太郎が反乱を起こしたため、筑前から兵を率いて対馬に渡り、反乱を平定して対馬の地頭に補任されたと伝えられる。重尚は晩年に内山村の宗...
壱岐国分寺県史跡
長崎県壱岐市芦辺町国分本村触壱岐国分寺は芦辺町国分にあった。壱岐の国分寺は新しく建立された物ではなく、壱岐直の氏寺がそのまま国分寺として利用され、島分寺と呼ばれた。
壱岐国分寺の遺構、遺物としては礎石や瓦片などがある。
安国寺県史跡
長崎県壱岐市芦辺町深江栄触546安国寺は足利尊氏が全国に一寺一塔を設けたもので、寺を「安国」、塔を「利生」といい、あわせて「安国寺利生塔」と呼ばれている。
壱岐の安国寺は当時この地に存在した海印寺を安国寺と改め、無隠元晦和尚を...
少弐資時の墓
長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦少弐資時は鎌倉時代の武将で少弐経資の長男である。
弘安の役で元寇の東路軍の拠点が壱岐島にあり、これを討つために鎮西奉行の少弐経資は御家人を率いて壱岐島の瀬戸浦に上陸して元軍と戦った。この戦いで少弐資...
弘安の役 少弐の千人塚
長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦弘安の役で元寇によって虐殺された島民を埋葬した塚で、後に千人塚と呼ばれるようになった。
少弐の千人塚は少弐公民館の近くにある。
文永の役 新城古戦場県史跡
長崎県壱岐市勝本町新城東触文永11年(1274年)10月14日文永の役で蒙古軍が壱岐に上陸すると壱岐の守護代平景隆がこれを迎え撃ったが敗れ、樋詰城に退いた。翌15日、蒙古軍が樋詰城に来襲、樋詰城は自刃して一族も滅亡した。
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弘安の役 瀬戸浦古戦場県史跡
長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦弘安4年(1281年)二度目の元寇で壱岐島は元の東路軍の拠点となっていた。これを討つために鎮西奉行の少弐経資は御家人を率いて壱岐島の瀬戸浦に上陸して元軍と戦った。この戦いで少弐経資は負傷、長男の資時は...
黒崎砲台
長崎県壱岐市郷ノ浦町新田触黒崎砲台は第二次世界大戦で壱岐と対馬の間の海峡(対馬海峡東水道)を封鎖する目的で築造された砲台である。40cm口径のカノン砲二門を取り付け、射程距離は35kmであった。実戦では使われておらず、一度だけ...
鬼の窟古墳国史跡
長崎県壱岐市芦辺町国分本村触長崎県最大の円墳といわれ、直径約45m、高さは約13.5mである。石室は横穴式石室。
県道沿いにあり駐車場がある。
原の辻遺跡特史跡
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触原の辻遺跡は古代壱岐の島にあった「一支国」の王都と考えられている遺跡である。
「一支国」は三世紀末の中国の歴史書「魏志」倭人伝に登場する。
原の辻遺跡は現在『原の辻一支国 王都復元公園』として...
猿岩
長崎県壱岐市郷ノ浦町新田触壱岐対馬国定公園の一つ黒崎園地にある猿岩。駐車場から見ると本当に猿のような岩。
平景隆の墓
長崎県壱岐市勝本町新城東触(新城神社)平景隆は鎌倉時代の壱岐守護代であった。文永11年(1274年)10月14日文永の役で蒙古軍が壱岐に上陸するとこれを迎え撃ったが敗れ、樋詰城に退いた。翌15日、蒙古軍が樋詰城に来襲、平景隆は自刃して一族...
藤原理忠精忠碑
長崎県壱岐市勝本町立石仲触藤原理忠は平安時代後期の武将で壱岐の国司であった。
寛仁3年(1019年)満州(中国北東部と朝鮮北部一帯)の女真族が対馬や壱岐を襲った刀伊の入寇(といのにゅうこう)で、壱岐守藤原理忠はこの賊軍と戦っ...
藤原理忠の墓
長崎県壱岐市勝本町立石南触藤原理忠は平安時代後期の武将で壱岐の国司であった。
寛仁3年(1019年)満州(中国北東部と朝鮮北部一帯)の女真族が対馬や壱岐を襲った刀伊の入寇(といのにゅうこう)で、壱岐守藤原理忠はこの賊軍と戦っ...
総社神社
長崎県壱岐市石田町湯岳射手吉触『壱岐名勝図誌』によれば、「興神社第一の摂社なり、続風土記云、宗社と称すれば、古の国中宗社か、又は郡中管領神かなるへし、猶考えきなり」という。
律令政時代の国司は、国府の近くに総社を設けてそれを...
双六古墳国史跡
長崎県壱岐市勝本町立石東触長崎県最大の前方後円墳といわれ全長約91m、横穴式の石室である。
掛木古墳国史跡
長崎県壱岐市勝本町布気触掛木古墳は直径約28m〜35m程の円墳で、横穴式石室であった。
「壱岐風土記の丘」にあり駐車場と資料館がある。
大塚山古墳県史跡
長崎県壱岐市芦辺町深江栄触大塚山古墳は直径約14mの円墳で竪穴系横口式石室である。壱岐島のなかで最古の古墳されており、五世紀後半に築造されたものと推測されている。
百合畑古墳群
長崎県壱岐市勝本町百合畑触百合畑古墳群は百合畑1号墳から百合畑23号墳まであり、墳形は円墳と前方後円墳である。その中の一部が『百合畑古墳園』として公園整備されている。
国道沿いにある風土記の丘から80m程南へ進み東へ曲が...
笹塚古墳国史跡
長崎県壱岐市勝本町百合畑触笹塚古墳は直径約66mの円墳で、玄室、中室、前室の三室構造の両袖式横穴式石室である。この石室から金銅製の馬具一式、金環などが出土している。
重山塚市史跡
長崎県壱岐市石田町筒城西触重山塚は亀丘城代であった波多重の供養塔である。弘治元年(1555年)壱岐の国人衆である牧山氏ら六人衆が蜂起して亀丘城代の波多隆を討ち、その弟波多重を城代に据えたが、六人衆はこの波多重も討ち取ることを協...
はらほげ地蔵市文
長崎県壱岐市芦辺町諸吉本村触はらほげ地蔵の由来は定かはではないが、石仏の胸の部分に丸い穴があいているので「はらほげ」地蔵と呼ばれている。
港湾整備のために現在地に移されており、満潮時には首まで浸かり、干潮時に浜に降りて拝ん...
松浦久信夫婦の拝塔(安国寺)
長崎県壱岐市芦辺町諸吉本村触松浦久信は平戸藩二代藩主である。慶長7年(1602年)江戸へ上洛の途上、伏見にて急病となり急死した。久信の父松浦鎮信は、久信が病に倒れたと聞くと、平戸の印山寺の僧に病気平癒の祈祷を命じたが、その甲斐な...
諫早家墓所(天祐寺)
長崎県諫早市西小路町1116墓碑
深堀純賢夫妻の墓(天初院)
長崎県諫早市高来町船津墓碑
龍造寺隆信の墓(和銅寺)
長崎県諫早市高来町法川墓碑
板倉重昌の墓(江東寺)
長崎県島原市中堀町(江東寺)墓碑
松浦家墓所(雄香寺)
長崎県平戸市大久保町(雄香寺)墓碑
松浦隆信の墓(正宗寺)
長崎県平戸市鏡川町(正宗寺)墓碑
積徳堂跡県史跡
長崎県平戸市岩の上町1146(山鹿文庫)史跡
天手長男神社
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730一宮
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