平景隆の墓たいらのかげたかのはか
△トップに戻る
平景隆は鎌倉時代の壱岐守護代であった。文永11年(1274年)10月14日文永の役で蒙古軍が壱岐に上陸するとこれを迎え撃ったが敗れ、樋詰城に退いた。翌15日、蒙古軍が樋詰城に来襲、平景隆は自刃して一族も滅亡した。
平景隆の墓は新城神社の脇に残されている。