壱岐 樋詰城いき ひのつめじょう
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詳細不明。壱岐守護代であった平景隆の詰城と考えられており、文永の役でこの樋詰城に立て籠もって蒙古軍と戦ったが敗れて自刃した。
樋詰城は現在新城神社の境内となった比高20m程の丘に築かれている。
樋詰城は後世の改変が大きく遺構はかなり損なわれているが、神社の南から西にかけて空堀と土塁が残っている。残っている堀も半円状であることから、この城もまた円形プランであったのかもしれない。