永仁元年(1293)年に肥前岸岳城主波多宗無によって築かれたと云われる。
文明4年(1472年)岸岳城主波多泰が壱岐へ侵攻し、壱岐を分割支配していた松浦党五氏(志佐氏、佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏)を覩城に敗って壱岐を制圧すると、亀丘城を修築して壱岐の拠点とし、一族の阿波守を置いて支配させた。弘治元年(1555年)には壱岐の国人衆である牧山氏ら六人衆が蜂起して亀丘城主波多隆を討ち、さらに弟波多重も討ったが、波多親が新しく亀尾城主に迎えられた。
永禄7年(1564年)波多氏の内訌に乗じて日高甲斐守喜が謀叛を起こして岸岳城を奪取する。しかし、有馬氏や龍造寺氏の支援を受けて波多氏が岸岳城を奪還すると、永禄8年(1565年)日高甲斐守は壱岐へ渡り亀丘城を横領した。日高甲斐守は亀丘城主に波多政を据えて壱岐を支配したが、元亀2年(1571年)には対馬の宗氏が壱岐へ攻めてきたため、これに対抗するため平戸松浦氏に援軍を求め、以後松浦氏に従うようになった。
亀丘城は壱岐市役所の東側にある高台に築かれていた。現在は本丸の一部が残り公園として整備されている。
亀丘城は本丸、二の丸、三の丸などがあった城であるが、現在は本丸の一部が残るのみで周辺は市街地になっている。公園となっている本丸も損壊が大きく、南側は失われている。
本丸は半円状に窪地が巡っており、これが空堀跡とされる。遺構としてはこの外側、北斜面に高石垣があり唯一の見所である。
亀丘城公園に駐車場がある。