築城年代は定かではないが戒能氏(かいのう)によって築かれたと云われれる。
天文年間(1532年~1555年)大除城主大野紀伊守利直は剣山城主黒河通俊とともに戒能氏の小手ヶ滝城を攻めた。水之手を切られた戒能伊賀守通運は小手ヶ滝城を捨てて大熊城に籠城した。大野氏は大熊城を包囲して攻め立てたが落城せず、やむなく退却したが、戒能氏はこれを追撃し、黒河通俊を自刃に追い込んだという。
その後、再び大野氏と黒河氏が戒能氏を攻めたが、荏原城主平岡房実や岩伽羅城主和田通興の加勢を得てこれを撃退した。
通運の子戒能通森は河野氏の重臣としても活躍、天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景の軍勢が伊予に侵攻したさいには河野通直に降伏することを勧めた。降伏後は通直とともに芸州竹原に渡ったが、通直の没後に大熊に帰り仏門に入った。通森の嫡男は毛利に仕えようと芸州へ渡ったが不慮の死を遂げ、二男は帰農して後に庄屋となったという。
大熊城は標高856.2mの大熊山に築かれており、山頂には小さな大熊大権現の社が祀られている。西の川からだと比高約600m、奥惣田の集落からでも比高400mに近い高所に築かれている。
大熊城は地元で一の森と呼ばれる最高所とその西にある二の森と呼ばれる峰に遺構がある。
主郭は山頂にあって小さく三段に分かれている。周囲は急峻な地形で西下に四段からなる二郭がある。
主郭の東背後は岩盤の上に小さな堀切1があり、南側には堀切2がある。堀切2の竪堀から東の尾根部分にかけて短い畝状竪堀群3が確認できる。
二の森と呼ばれ曲輪IIIは山頂部を削平し西端に石を伴う虎口らしき開口部がほあるが、遺構かどうかは判然としない。ここから少し下ったところに堀切4があり、南北両側に長く竪堀として伸び遮断している。
庄屋元から奥惣田に続く舗装路を進んで行き、奥惣田集落が見えてきた辺りで、左上に登って行く細い道がある。ここに熊山登山道の道標があるが、いまは倒れている。ここから尾根上まで登り、尾根道を進めば主郭に達する。
駐車場はないが、離合などにじゃまにならないスペースを探して駐める事ができる。
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