築城年代は定かではないが享禄年間(1528年〜1532年)に黒川肥前守元春によって築かれたと云われる。
「伊予温故録」によれば、元春は土佐の長宗我部元秀の二男で、元国の弟にあたり長宗我部元親の叔父にあたる人物で、兄の元国と睦じからず、伊予国周敷(周布)郡千足村黒川にきて、黒川山城守通矩と兄弟のちぎりを結んで通矩を兄とした。それに感謝した元春は長宗我部の名を捨て、黒川元春と称したという。長宗我部元秀は元親の祖父兼序であるから、元国とは父国親のことになるのであろうか。
黒川元春は剣山城を築いて勢力を拡げると、高峠城主の石川氏の一族、高尾城主石川源太夫と度々戦ったという。
黒川元春の嫡男黒川対馬守通俊は、天文22年(1553年)大除城主大野紀伊守利直に与し、大熊山城主戎能備前守通森を攻めたが利なく、退く際に追兵によって馬を射られて自害したという。
黒川氏は幸門城主正岡通澄の二男を養子に迎え、黒川美濃守通博が家督を継いだ。
天正13年(1585年)豊臣秀吉秀吉による四国征伐で、小早川隆景の軍勢に攻められ落城し廃城となった。
剣山城は伊予小松JCTの南側、妙之谷川の東岸にある北へ伸びた山塊の標高245.3mに築かれている。日本城郭大系では剣山城のルビを「けんざん」としているが、別称を鶴来山城といい、「愛媛県中世城館跡」も「つるぎやま」としているため、こちらを採用している。
剣山城は上城と下城からなる山城であるが、隣の幻城とは異なり隣接して存在している。
上城は標高245.4mのとろにある曲輪I1を主郭とし、北に向かってI2、I3と曲輪を並べ、北端は二重堀切5で遮断する。主郭の背後には堀切3、堀切2、堀切1と三ヶ所に堀切があり、その間にも緩斜面地形I4、I5があるが、ほぼ自然地形である。
I1の北西隅には虎口らしき部分があり、I2の側面を抜けてI3の脇から下る道につながる。このルートは山道として利用されている部分であるが、本来の虎口ルートの可能性がある。I1の東側面には高さ1mほどの石積が続いおり、竪堀4の上端部も石積されている。
下城は標高210m付近で黒川神社跡が残る部分が主郭となる。ここも北側にII2、II3と二段の曲輪があり、II1とII2の間は石段であるがこれは参道に伴うものであろう。北端はやや間隔があいた二重堀切8、II2の北東下には二条の竪堀をハの字にした竪堀9、主郭の背後には二重堀切7があり、間隔をあけてさらに二重堀切6がある。その間の部分はヤブが多く調査しきれていないがほぼ自然地形である。
北端部分には竪堀状地形がたくさん存在しているが、大半は自然地形、一部は堀の可能性があるが山道と錯綜していて判断が難しい。
北麓高速道路の側道から旧参道があり、踏跡程度の山道が続いている。
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