築城年代は定かではないが今井三郎左衛門によって築かれたと云われる。
その後は宇野氏の居城となり、文明11年(1479年)細川義春が伊予に侵攻してきたとき、宇野隼人正通平は細川氏の武将香西氏の陣を夜襲したが敗れ、大熊城に退いた。
天正13年(1585年)伊予天正の陣では、宇野隼人正職弘とその弟掃部亮安弘は小早川隆景に早くから降って桑村郡衆を攻めたが、桑村郡衆に不意を突かれて討死したという。
獅子ヶ鼻城は天福寺の南背後、北東に伸びた尾根の先端頂部に築かれている。
頂部にあまり削平されていない主郭があり、北東下に腰曲輪が一段ある。南西尾根は三重堀切で遮断し、南側面には堀切から伸びる竪堀と連動して連続竪堀がある。北側面には見あたらないが、こちらは林道が切岸下を通っているため消滅した可能性もある。尾根の先端側は林道の先に二重堀切があり、腰曲輪からやや距離があるので、林道によって曲輪の一部も消滅している可能性がある。
北麓にある天福寺の山号は「獅吼山」で宇野氏の菩提寺である。
天福寺の東側にある川沿いの道を進んでいくと林道となり、道は狭いが舗装された道が城跡まで続く。先端の大きくカーブしている辺りなど何ヶ所が車を駐められる場所はある。
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