築城年代は定かではない。
治承4年(1180年)源頼朝の挙兵に呼応した河野通清が伊予国府の平家目代を攻め、国府を逃れた目代らが文台城と大熊城に籠もって河野氏を迎え撃とうとしたが落城し、赤滝城へ逃れた。
文明11年(1479年)細川義春が伊予に侵攻してきたとき、河野通篤が大熊城でこれを迎え撃ちからくも撃退したという。
その後の城主は佐伯河内守惟元、神野孫太郎などが伝えられる。
大熊城は松山道鞍瀬トンネルのある山に築かれている。
大熊城は三角点のある標高303.7mの東峰と標高327mの西峰にそれぞれ曲輪がある。 現在東峰の三角点の脇に大熊城の石碑がある。
西峰にある西郭は北下に一段鉄塔のたつ腰曲輪状地形があり、南西や東にも小さな腰曲輪地形があるが明瞭な堀はない。曲輪の南端近くに石祠が祀られている。南下に狛犬が鎮座しているので参道は南側であったようだ。
東郭は西峰よりもやや低いが三角点の脇に石碑がある。北側に鉄塔があるが、曲輪の北側は地面が荒れて藪も深く遺構は不明。南に一段腰曲輪がある。周囲の切岸はハッキリしており、南東側は竪堀状にやや窪んだ地形があり堀切があったかもしれない。まち明瞭ではないが西尾根側も堀切があった雰囲気は感じられる。
北麓の県道沿いに鉄塔巡視路入口があり、西郭を経て東郭に行くことができる。入口はコンクリートスロープを上がっていく方が早い。