築城年代は定かではないが平安時代末期に築かれたと云われる。
治承4年(1180年)河野通清は源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げ、伊予国府にいた平維盛の目代を攻めた。平家の目代は国府から逃れ、大熊城、文台城に籠もって河野氏に備えたが河野氏によって大熊城、文台城ともに落城する。目代は赤滝城へ逃れて籠もったがこれも落城した。
戦国時代には兼頭修理、臼坂弾正、武田備後守、平川某らが城番を務めた。享禄年間(1528年〜1532年)には剣山城主黒川氏の持城となったという。
文台城は志河川ダムの北側、東へ伸びた尾根の先端頂部に築かれており、現在は登山道が整備されている。
単郭の山城で東西に長い主郭があり、西下の鞍部が堀切状になり堀切2に対して土塁の付いた曲輪ii、北側面に腰曲輪iiiがある。北側面の竪堀3は曲輪iiと曲輪iiiを分断するように設けられている。西尾根は大きな堀切2があり、その先に浅い竪堀状地形4、東尾根は小さな堀切1で遮断している。
志河川ダムに向かう道の松山道高架下手前に登山道入口があり案内板が設置されている。登山道入口近くに駐車可能なスペースがある。
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