築城年代は定かではないが南北朝時代に岡氏によって築かれたと云われる。 岡氏は河野通信の子信家が河野信時の養子となり、岡の庄を領して岡氏を名乗ったことに始まるという。
興国3年(1342)後村上天皇は新田義貞の弟脇屋義助を伊予に派遣したが、義助は伊予国府にて病死した。この機に乗じて北朝方の細川頼春は伊予へ侵攻し、仏殿城などを落として新居郡に侵攻、大保木天河寺に陣を構えて幻城に攻め寄せた。このとき、上城には大将岡若丸、下城には岡弾正が詰めていた。
下城の城主岡弾正は大日寺の一丁ほど離れた所へ討って出て合戦となり、敵の香西出雲守と戦って相討ちとなって討死した。細川方はここぞとばかり城に攻め懸かると、大将の岡若丸は討ち出て細川方の二陣の将矢野肥前守と切り結んで討ち取ったが、城に入って自刃して果てた。
天文年間(1532年〜1555年)になると剣山城主黒川肥前守元春が古城を改修して要害として黒川弾正少弼政長を城主とし、高峠城主の石川氏に対抗した。しかし、石川氏もまた高尾城を築いて石川源太夫を配しこれに対応した。
天正13年(1585年)豊臣秀吉秀吉による四国征伐の後に廃城となった。
幻城は上城と下城から成る山城で、上城は綱付山の西方1km程にある標高488.3mの山頂に築かれている。下城とは直線距離にして約1.1km、比高差も250m程ある。
主郭は山頂にあって一段小高く周囲にやや分厚い高土塁が巡っている。虎口は不明であるが西側に曲輪iiに通じる古い山道とは別に開口部が一箇所ある。
北下に南北に長い曲輪iiがあり、西に土塁が付いている。この曲輪は公園造成の影響をかなり受けているようであるが、北端部は切岸があまり明瞭ではない。ここからさらに北へ下った所に細くなった尾根を竪堀4でさらに狭めるようにした地形があり、この上に曲輪vとなる小さな平段がある。この尾根を降って行くと下城へと繋がるが現状では猛烈なシダ藪でこの先には遺構らしきものは見当たらなかった。
主郭の南西下には曲輪とも考えられる曲輪ivがあり、尾根は三条の連続堀切で遮断する。堀切は幅広く、北は竪堀として伸びているが、一番外の三条目は尾根上部分は堀切にならず、北へ竪堀として落ちている。またそこから西へ続く尾根に土塁状の地形があり、南端には二条の竪堀2がある。この辺りの地形は遮断しきれておらず改修中に不完全な形で終了したか、埋もれてしてまっているのかもしれない。
第60番札所横峰寺から第61番札所香園寺へ向かう遍路道があり、それを登れば上城に至る。香園寺奥の院から続く車道をさらに登った標高200m付近に駐車場がある。ここから横峰寺方面に登ると上城、反対に北側に進むと下城に行くことができる。
最寄り駅(直線距離)