築城年代は定かではない。
代々正岡氏の居城で、天正年間(1573年〜1592年)には河野氏の侍大将十八将の一人正岡経政が当主であった。
天正7年(1579年)家老鳥生石見守は反逆を企てて鷹ヶ森城主越智通能と相談して経政を討ち取る手筈を整えたが、実行に移す前に事が露見し石見守は経政に討たれ、石見守の妻子は逃れたが鬼原境で追いつかれて首をはねられたという。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で伊予に侵攻した小早川隆景に攻められ、経政も討死して落城し廃城となった。
城は玉川湖の北の山にあり、北の山頂から南へ伸びた尾根に築かれている。
主郭は北の頂で南北に二段の削平地があり、最上段には東側に石組みされた区画がある。その東側面にも石積みが残っている。南側には堀切があったと思われるが現在は破壊されて確認できない。
南へ伸びた尾根に一条の堀切があり、その南側に南北に長い曲輪がある。東側に虎口と思われる道があり、北側はやや東に張り出しており横矢を意識したものか
国道317号線が玉川湖の北側を通る途中に北側の山へ入って行く道があり、その道を進んで行くと「幸門城」入口の案内があり、その付近に路駐スペースがある。
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