築城年代は定かではない。小さな砦を文禄年間(1592年〜1596年)頃に岡山城主宇喜多秀家が出城として改修したのが下津井城の始まりといわれる。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で西軍に属した宇喜多秀家は改易となり、代わって小早川秀秋が岡山に入封すると、その重臣平岡石見守頼勝が下津井城代となった。
慶長7年(1602年)小早川秀秋が急死し、翌8年に池田忠継が岡山に入封となると姫路藩主池田輝政の弟で播磨国赤穂城代であった池田長政が下津井城三万二千石を領し近世城郭へと大改修した。 長政が没し、慶長14年(1609年)になると池田由之が播磨国佐用より移り、三万二千石を領した。
慶長18年(1613年)姫路藩主池田輝政が没すると池田由之は播磨国明石へ移り、忠継の重臣荒尾成利が城代となる。
寛永9年(1632年)岡山藩の家督を継いだ光仲が幼小であったことから、因幡国鳥取藩池田家その間で領地替えが行われ、荒尾氏は伯耆国米子城代となり、米子城代であった池田由成が下津井城代となった。寛永16年(1639年)一国一城令によって下津井城は廃城となり、池田由成は天城陣屋を築いて移り天城池田氏として明治まで続いた。
下津井城は下津井港に面した標高89mの山に築かれており、現在は県指定史跡として整備されている。
下津井港に面して東西に伸びた尾根に築かれており、山頂の主郭は北西隅に小さいながらも天守台を備えている。その下を取り巻くように二の丸、東尾根には三の丸、中の丸、東出丸、西尾根には西の丸、馬場があり、ほぼ全体が石垣によって構築されている。特に整備された南山腹の三の丸石垣が良好である。
城門(移築 城門)
倉庫(移築 倉庫)
車の場合、瀬戸大橋架橋記念公園を目指していけば良い。下津井城内まで車で入ることも可能ではあるが、道が狭くわかり辛いので、瀬戸大橋架橋記念公園の広い駐車場に駐め、遊歩道を歩いて行くのがよいだろう。
遊歩道が付いた所が馬場、すぐ上に西の丸、二の丸を経て本丸である。
最寄り駅(直線距離)