建暦2年(1212年)新宮時連によって築かれたと云われる。 新宮氏は黒川城主葦名盛連の六男で新宮の地を与えられ城を築いて新宮氏を名乗ったと云う。
貞和5年・正平4年(1349年)新宮明継は小松原合戦で葦名直盛と戦い、康暦元年・天寿5年(1379年)北田城主大庭政康と戦って討死した。応永9年(1402年)には新宮盛俊は加納荘領主青山城主佐原氏を攻め滅ぼし、北田城主北田政泰と結んで葦名氏と戦ったが、翌応永10年正月晦日に葦名氏によって新宮城は攻め落とされ、盛俊は小布瀬城逃れて尚も戦ったが五月に和を請い許された。
応永16年(1409年)北田氏が葦名氏によって攻め滅ぼされると、応永20年(1413年)新宮時康は葦名氏によって派遣されていた郡代を討ち、高館城を築いてたて籠った。応永22年(1415年)葦名盛政によって高館城は攻められたが堅く守って撃退し、応永26年(1419年)には越後国津川城を落としたが、小布瀬城が葦名氏に攻略されると翌応永27年には高館城が攻め落とされ、新宮盛俊は奥川城へ逃れたが葦名氏の追撃を受け、さらに越後国五十公野に逃れた。永享5年(1433年)新宮時兼等の一族は再起をかけて津川城へ攻め込んだが、津川城主金上盛勝によって撃退され、一族の大半が討死して滅亡した。
城は濁川西岸の平地に築かれている。 本丸は畑となっているが、四方に巡らされた堀が良く残っている。本丸の北と南にある川も堀の跡で本丸を中心に南に二の丸、西に三の丸があったようであるが、現在はどれも開墾されている。
現在は駐車場と県道336号線沿いに石碑が建っているのみで案内板などは設置されていないが、最近国指定史跡への答申を受けたようなので、今後どのように整備されるか楽しみである。