築城年代は定かではない。観応3年(1352年)三浦若狭守(蘆名直盛と推測)が河沼郡の合川、浜崎城、蜷河庄政所楯、牛沢城などを攻めており、これが浜崎城の史料における初見である。
宝徳3年(1451年)蘆名盛信が没すると嗣子盛詮が幼小であったことから家督相続争いが発生し、猪苗代氏が浜崎館を攻め落としている。
享徳2年(1453年)には松本筑前守によって会津を追われ、日光まで逃れていた松本右馬允が会津に攻め入り、浜田館を攻め落としてこれに籠もって戦ったが、右馬允は自刃して果てた。
慶長6年(1601年)伊達政宗から会津地方を没収した豊臣秀吉はその所領を蒲生氏郷に与えた。蒲生秀行の時代には家臣の蒲生主計介郷貞が浜崎城主となった。元和の一国一城令によって廃城となったが、「茶屋」と称してしばらくは存続していたという。
浜崎城は県道326号線の南大橋で日橋川を渡った南側に築かれている。 ちょうど南北を通る道路が本丸と二の丸を分断するような形になっているようである。
道路沿いに案内板と標柱が建っており、道路東の城東稲荷神社の方へ回り込むと本丸の土塁と堀が良好に残っている。内部は宅地であるため細かい所は見ることができないのが残念である。道路の西側には二の丸があり、こちらも土塁と堀が残っている。