築城年代は定かではない。天正年間(1573年〜1592年)には蘆名氏の家臣慶徳善五郎が城主であった。
慶徳善五郎は天正13年(1585年)伊達氏に内通した松本備中守が伊達軍とともに北方へ乱入したとき、中目式部大輔らとともにこれを討ち破っているが、その後の動向は不明である。天正18年(1590年)蘆名氏を敗り会津へ進出した伊達政宗が慶徳因幡へ知行を宛がっているが、因幡と善五郎の関係は不明である。
慶徳城は現在の慶徳小学校一帯に築かれていた。小学校のある所が本丸、東に二の丸、二の丸の南に三の丸があったというが、現状では遺構はほとんど残っていない。
小学校の西側の道路沿いに『慶徳寺城跡 城主とお田植え祭り』という小さな看板が建っている。