建久4年(1193年)佐原次郎広盛によって築かれたと云われる。 佐原次郎広盛は蘆名氏の祖とされる佐原十郎義連の孫で、佐原遠江守盛連の次男である。
広盛はこの地に北田城を築いて北田氏を称し、広盛の後、泰盛、盛広、重忠、正国、正隆、政泰と七代続いた。北田上総介政泰は、応永16年(1409)蘆名盛政の総攻撃を受けて北田城は落城し、北田氏一族は討死して滅亡した。
北田城は湯川と旧日橋川が合流する地点の南西にあった高台に築かれていた。 現在は周囲一面圃場整備により水田と化しているが、本丸の土塁の一部が残され、そこに標柱と案内板が設置されている。
『福島県の中世城館跡』によれば、北田城は本丸と二の丸があり、本丸の規模は東西約110m、南北約120mで周囲に土塁と掘が巡らされていたようである。
塩川駅南の県道127号線を道なりに進むと会津縦貫北道路を潜り、大きく左に曲がって日橋川を渡る。県道の南東側に塚のようなものがあり、それが土塁。県道から農道が案内板まで付いている。
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