越後 津川城えちご つがわじょう

城郭放浪記


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越後 津川城の写真
掲載写真数
形態
山城(120m/80m)
別 名
狐戻城,小川城
文化財指定
県指定史跡
遺 構
石垣,土塁,郭,堀,井戸
城 主
金上氏,北川平左衛門,藤田信吉,鮎川帯刀,岡重政
歴 史

築城年代は定かではない。建長4年(1252年)蘆名一門で金上氏の祖となる金上館主藤倉盛弘が築いたのが始まりとも云われるが定かではない。越後ではあるが、会津を拠点とした蘆名一門の金上氏が代々居城としており、江戸時代に入ってからも会津領と密接な関係が続いた。

応永26年(1419年)蘆名氏と一門で会津新宮城主新宮盛俊が対立して小河城で合戦しており、これが津川城とみられている。

永正7年(1510年)には越後守護代長尾為景が蘆名家臣松本源蔵の手引きで狐戻城を攻めたが、城主の金上盛信は城に籠もってこれを撃退している。

天正6年(1578年)御館の乱で、金上盛備は上杉三郎景虎を支援し、景勝方の水原氏や下条氏らを攻めた。また新発田重家の乱でも重家を支援している。金上盛備は蘆名氏の重臣として活躍したが、天正17年(1589年)摺上原の戦いで討死、蘆名氏もまた滅亡した。

天正18年(1590年)蒲生氏郷が会津に入部すると、その家臣北川平左衛門が城主となった。蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に転封となると藤田信吉が津川城代となって一万五千石を領したが、後に出奔して徳川家康の元に逃れたため、鮎川帯刀が入った。

関ヶ原合戦の後、上杉景勝は会津から米沢へ転封となり、会津に蒲生秀行が入ると、その家臣岡重政が入った。寛永4年(1627年)蒲生氏が断絶となって加藤嘉明が会津に入部すると、幕府の命によって津川城は廃城、その後は津川代官所によって管理された。

説 明

津川城は阿賀野川と常浪川が合流する地点に聳える麒麟山に築かれており、現在は公園として整備されている。

切り立った岩山である麒麟山の先端部分を城としており、山頂部分は城域ではない。主郭は尾根の先端頂部にあり、その下方には高石垣や井戸曲輪などがある。山の麓部分にも石積を伴う広い曲輪群があり、舟入もあった。

山麓は現在の登山道入口のある南山麓の入口に土塁遺構があり、この辺りには侍屋敷があったようである。

案 内

国道459号線城山隧道南口に公園駐車場があり、そこから遊歩道が山頂に続いている。

最寄り駅(直線距離)
1.1km 津川駅
2.2km 鹿瀬駅
7.0km 日出谷駅
7.3km 三川駅
9.9km 五十島駅
所在地/地図
新潟県東蒲原郡阿賀町津川
GPSトラックデータダウンロード :[KML形式 ][GPX形式 ]
付近の城(直線距離)
0.5km 越後 会津藩津川出張陣屋
7.2km 越後 鳶ヶ城
8.1km 越後 細越館
最終訪問日
2016年4月
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