築城年代は定かではないが大庭氏によって築かれたのが始まりとされる。
その後、松平氏によって攻められ大庭氏は滅亡、五井松平氏の忠定が深溝城に入り、深溝松平の祖となった。
深溝松平家忠のとき徳川家康の関東移封にしたがい一万石で忍城主となった。家忠は関ケ原合戦で伏見城に籠城したが西軍に敗れて自刃した。 家忠の嫡子忠利は、関ヶ原合戦ののち深溝一万石に転封となり旧領に復したが、吉田藩三万石に加増転封となり移った。深溝松平氏はその後も転封を繰り返し、島原藩主として明治まで続いた。
深溝松平氏が関東へ移封となったのちは吉田城主池田輝政の家臣日置忠俊が城主となっていた。
関ヶ原合戦後に深溝松平氏が深溝藩一万石の大名として深溝城に入ったが、慶長17年(1612年)吉田藩に転封となり深溝藩は廃藩となった。
寛永元年(1624年)板倉重昌は父勝重の遺領のうち六千六百石余を分与され、合わせて一万一千八百石となって諸侯に列し深溝城を居所とした。寛永14年(1637年)島原の乱が起こると幕府の上使として西国の諸侯を率いて島原一揆の鎮圧に向かったが、翌15年(1638年)討死した。
寛永16年(1639年)家督を継いだ重矩は弟重直に五千石を分与して居所を中島へ移したため深溝藩は廃藩、深溝城は旗本となった重直の居所として深溝陣屋となり、後に三千石を加増され、八千石の旗本として存続した。
深溝城は現在の三協幸田工場の敷地になっている。
南の道路に面して石碑と案内板があり、工場の一角には今も土塁が一部残されているというが未確認である。