築城年代は定かではない。千野氏の居城と伝えられる。
文明15年(1483年)に諏訪氏は惣領家と大祝家による内訌が激化するが、このとき千野氏は惣領家に属し、大祝家に属した下社の金刺興春と戦っている。
天文11年(1542年)武田信玄と高遠頼継が結んで諏訪へ侵攻した。このとき大熊城には千野入道兄弟が立て籠もっていたが、武田氏に攻められ落城した。
大熊城は諏訪大社上社本宮の西1km強の位置にある大熊集落の背後の丘陵に築かれていた。中央道の建設により全面的に発掘調査が行われており、堀・建物跡・土橋が検出され、中世の瀬戸・常滑・鉄釉天目茶碗が出土したという。
現在城址は中央道によって分断されている。中央道の北側の畑の所に案内板が設置されており、この辺りが主郭、北西側に二郭・三郭、南に四郭・五郭・六郭があったようである。
諏訪西中学校の南東側に北方御社宮司社があり、その前の道を道なりに東へ進むと中央道に架かる陸橋に出る。その手前に案内板がある。
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