築城年代は定かではないが諏訪氏大祝家によって築かれたと云われる。
文明15年(1483年)諏訪大祝継満は、諏訪惣領家の満政と嫡子宮若丸等を上社の神殿に招き、饗応中に不意をついて謀殺し、祭政二権を得ようと画策した。惣領家に属する矢崎・千野・有賀・小坂・福島・守矢などが大祝を攻めたため、継満は干沢城に籠もり対抗したが防ぐことができず、継満は城を捨てて高遠へ落ちた。再起を図る継満は妻の兄にあたる高遠継宗の支援を受けて武居城を修復し、諏訪勢の籠もる干沢城の奪還を試みたが叶わず撤退した。
天文11年(1542年)高遠頼継は自身が諏訪総領職を継ぐべく、武田信玄や金刺氏と結んで杖突峠を越え諏訪へ侵攻した。高遠勢は安国寺門前に火を掛けるなど干沢城周辺で戦闘があり、諏訪頼重は上原城を捨てて桑原城へ逃れた。結局、諏訪頼重は武田信玄の和睦を受け入れ開城したが、甲府へ送られ大祝頼高とともに自害させられた。その後の諏訪郡は宮川を境に西が高遠領、東が武田領となった。
干沢城は諏訪大社前宮本殿の東側にある北へ伸びた丘陵に築かれている。 一部鉄塔や後世の開墾で破壊されているが、全体的に草木が整備されて見やすくなっている。
南端の頂部に主郭、そこから北へ二郭、三郭、四郭と続く縄張となっている。 主郭から二郭、三郭へは南北に区画する空堀があり、東側面に竪堀となって落ちていく。 主郭の北端と三郭の東下に集石があり礫石とみられる。
南西の谷を挟んだ水道移設の上には長林砦と呼ばれる出丸があり、堀切が残っている。
南の谷には安国寺院墓所、国道の安国寺西交差点付近には大町遺跡の案内板が立っている。
諏訪大社前宮本殿の所から干沢城への遊歩道の道標があり、登った所が二郭と三郭の間の堀。
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