元徳2年(1330年)諏訪五郎時重によって築かれた。 第十四代鎌倉幕府執権北条高時の婿となった諏訪時重が信濃一円に勢力を拡げ、武居平に武居城を築いて居城としたことに始まると云われる。それからわずか三年の天慶2年(1333年)、鎌倉北条氏は滅亡し時重は北条高時とともに東勝寺にて自刃した。
文明15年(1843年)諏訪大祝継満は惣領家を倒して祭政二権を握ろうとしたが失敗して高遠へ逃れ、翌文明16年に小笠原正貞・高遠継宗に助けられて再挙兵した際に片山古城(武居城)を修築して本陣とし、干沢城の諏訪勢と対峙した。
天文11年(1542年)武田信玄が諏訪に侵攻した際には、諏訪頼重の家臣篠原弥三郎が城代であったが落城し、その後は諏訪大祝が城代となった。天正10年(1582年)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変に倒れると、諏訪頼忠が諏訪一円を回復したが、徳川家康に敗れ従属した。この頼忠は高島城(茶臼山城)を拠点としたため、武居城は廃城となった。
武居城は諏訪大社上社本宮の南南東にあり、標高900m付近の北東へ延びた尾根の頂部に築かれている。現在は武居城跡森林公園として整備されている。
武居城は単郭の城で、山頂から北東へ延びた尾根に無数の段が設けられている。 遊歩道は南下の尾根を堀底道で背後の南西尾根に登るように付けられている。この堀底道が城郭大系では武居城の空堀として写真付きで掲載されているが、この辺りの山にはこのような堀底道が多々あり、この横堀のような道も城郭遺構ではなく単なる道のようである。
この城山の北の中腹標高840m付近が武居城の居館跡と伝えられ、「保科畑」と呼ばれる地残る。
県道16号線の諏訪大社前宮と諏訪大社上社のちょうど中間付近にある「神長官守矢史料館」があるが、その付近から山上に続く車道がありそれを登っていくと「武居城跡周辺史蹟マップ」という案内板がある。車はそこから少し先の林道入口付近か居館跡付近が展望台施設になっており、そこに置くことができる。城山へは林道入口から歩いて少し登った所から遊歩道がついている。
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