築城年代は定かではないが南北朝時代に神内氏によって築かれたと云われる。 神内氏は山田郡一帯に勢力をもった植田氏の一族で、十河氏・三谷氏とともに三家と呼ばれた。
文治元年(1185年)の源平屋島の合戦では神内広忠は源氏に味方して出陣し功績を挙げた。
貞治元年(1362年)神内太郎景成は、細川清氏が三木郡の白山に挙兵すると、十河氏・三谷氏とともに馳せ参じ、南朝方として戦った。
天文年間(1532年〜1555年)から天正年間(1573年〜1592年)頃には、神内右京進景之と神内右京進清定が十河氏に属しており、神内の他に木太郷も所領とし木太城を築いていた。しかし、天正12年(1584年)の長宗我部氏に攻められた十河城防衛に加わったが敗れた。
神内城は中谷集落の南方、北西に張り出した尾根の先端に築かれている。
神内城はほぼ単郭の城で、北の高台となった土壇を本丸、南下の土塁の付いた曲輪を二ノ丸としている。本丸と二の丸との間に虎口があり、土塁の外側に三角形の空間があり、そこから東の麓へ大手道が通じている。
本丸は虎口の北側にある土壇で土塁は付いておらず、南の二ノ丸は虎口を北端として東から南に掛けて土塁が付いている。本丸の西側の尾根は弧状の堀切で遮断し、二ノ丸の南側も横堀状に堀り切っている。
この城の北麓に神内氏の江戸時代の墓地、そこから北へ張り出した尾根の先端に鎌倉時代後期から室町時代にかけての墓地があり、五輪塔や宝篋印塔などが残る。
県道43号線から中谷集会場の方に入って行った所に案内板が設置されている。城山へは大手道から登ることもできるが、神内氏の江戸時代の墓地から登るのが手っ取り早い。
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