築城年代は定かではないが天文から天正年間(1532年〜1592年)頃に神内氏によって築かれたと云われる。 神内氏は植田氏の一族で、神内広忠は文治元年(1185年)の源平合戦で源義経に味方した。南北朝時代には神内景成が細川清氏の白山挙兵に馳せ参じ南朝方に加わった。
神内氏ははじめ神内城を居城としていたが、天文から天正の頃の城主神内景之、神内清定の頃に木太城を築いたという。神内氏は十河氏に属し、植田郷神内で三百石、木太郷で七百石の計千石の所領があったが、天正12年(1584年)長宗我部氏によって十河城が落城すると木太城も運命をともにした。
城は現在の木太南小学校付近に築かれていたが、遺構は残っていないようである。 木太南小学校の南の校門に案内板が設置されている。