天智天皇6年(667年)に築かれた。 『日本書紀』によれば天智天皇6年(667年)に高安城、対馬国金田城とともに屋嶋城が築かれたことが記されている。讃岐では屋嶋城の他に城山城が古代朝鮮式山城として知られるが、こちらに関しては記載されていない。
屋嶋城は源平古戦場としても知られる屋島に築かれていた。 浦生の石塁が知られていたものの、その性格については数々の議論があったが、平成10年に地元の研究家によって南嶺の南西斜面部に石積が発見され、それ以降発掘調査などによって北水門、南水門、城門、土塁などが発見されている。
城壁は総延長7kmに及ぶとされるが、大半は自然の断崖を利用したもので、それが途切れる谷間に城壁を築いていたようである。南の城門地区の石垣の復元工事が完成して公開されている。窪んでいる部分が城門で下部には暗渠がある。城門へはハシゴを使って登る事を想定しているようで、入ると左へ折れて登っていく構造であった。
浦生の石塁は北峰と南峰の間の西の谷間の部分に設けられた石塁で、横矢で張り出す櫓台となる雉城と石塁が残っている。この遺構は浦生集落にある鵜羽大明神から真っ直ぐ山に向かって進み、最後の民家の脇を抜けると山に入る。ここから右奥の堀底道を谷川沿いに進んで行けば案内板がある。
車の場合は屋島ドライブウェイ(旧有料道路)を利用して山上まで登ることができる。山頂に有料駐車場がある。
浦生の石塁は海沿いに駐車できる。
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