築城年代は定かではないが三谷景晴によって築かれたと云われる。
文明12年(1480年)寒川左馬允は三谷兵庫頭景久を攻めると、三谷氏は三谷城から王佐山城に立て籠もった。寒川氏は三谷城に火をかけて王佐山城に攻め込んだが、堅城であったため、寒川氏は敗れて退いた。
永正5年(1508年)香西豊前守元定が三谷氏を攻めたが、このときも王佐山城へ立てこもり撃退した。
長宗我部元親は先に降した由佐城主の由佐左京進秀武に命じて王佐山城を攻めさせ、これを攻め落としている。
王佐山城は標高255.7mの上佐山(うわさやま)に築かれている。現在は登山道が整備されており、主郭のある山頂はきれいに苅られ展望が開けている。
王佐山城は北の山頂部と南西にある雌上佐山(標高193m)の二つの峰に築かれており、北が主郭部となっている。
主郭は山頂にあり、北東側が方形に窪んで虎口のようである。一段下がって帯曲輪が巡っているようであるが、この辺りは藪の中ではっきりしない。曲輪はこの主郭部から北西と北東の両尾根に続いている。
北西の尾根は段々と造成された平段の北端、標高180m付近に放射線状に拡がる畝状竪堀群が残されている。北東の尾根にも段々の曲輪群が連なり、北端東部に畝状竪堀群があるが、この部分は北西尾根にくらべ竪堀遺構が余り明瞭ではない。
南西の雌上佐山にある曲輪群は山頂の平段から西と北東の尾根に平段を設けているだけで、堀切は見あたらない。
登山道は各方面からあるが、北麓の平和公園墓地の管理棟付近からの登山口がわかりやすいだろう。ここに駐車場もある。(地図)
登り口は管理棟の向かいにある記念塔の奥側にあり道標が出ている。ここから登ると北西尾根から山頂の主郭に達するので、下山の際は北東の曲輪群を見てそのまま下れば、登った所から東に600m程離れた林道に出てくることができる。
最寄り駅(直線距離)