築城年代は定かではないが三谷氏によって築かれたと云われる。 三谷氏は植田氏の別れで、長子が神内太郎、次子が植田二郎、三子が三谷三郎、四子が十河十郎として分れたという。
文明12年(1480年)三谷兵庫頭景久のとき寒川左馬允に攻められたが、三谷城から王佐山城に立て籠もり寒川氏を撃退、永正5年(1508年)にも香西豊前守元定を王佐山城で撃退した。しかし、天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部氏の軍勢により攻められ落城した。
三谷城の位置は定かではないが、三郎池の東にある微丘陵に三谷兵庫頭の墓が残っており、この辺りと考えられている。