詳細不明。城主は国分氏の家臣八乙女淡路盛昌。国分氏が滅亡すると八乙女淡路の子善助は伊達政宗に従った。
八乙女氏は一時七北田村に隠棲したのち、天正16年(1588年)八乙女善助が伊達政宗に旧領を安堵され実沢に移り住んだといい、これが「館屋敷」と呼ばれる所ともいう。
『日本城郭大系』に実沢城として記載されているのが、この「館屋敷」のようである。
八乙女館は段丘が東へ張り出した所に築かれている。
八乙女館は曲輪内が土取などによって残存状況は決して良くないが、西側に残る土塁と空堀の遺構は比較的良好に残っている。
西の空堀は二重、三重となり土塁も併せて三重に残っている。一番内側の土塁は高さ2〜3m程あり、中央南側で西へ張り出して横矢が掛かるようになっている。また外側には枡形状にコの字のような形で低い土塁があり、その外側に空堀を設けている。これが枡形虎口となっていたのか、或いは堡塁の機能を有していたのであろう。このような遺構は近くの本郷館でも見ることができる。
館跡の南下に実沢西集会所があり、ここに駐めて登るのが良いだろう。集会所の西側に案内板が設置されており、ここから山上に登る道がある。
最寄り駅(直線距離)