築城年代は定かではない。
南北朝時代に南朝の山村宮軍がこの地を拠点としたことから、山邑城とも呼ばれている。
城主は須藤氏で、山内首藤氏の末裔を称している。文和4年(1355年)頃には須藤刑部定信、永禄天正年間(1558年〜1592年)にはは山内須藤刑部少輔定信が城主であった。天正12年(1584年)須藤定信は結城七郎朝光との戦いに敗れて山野内城は落城、定信は杭城へと逃れたが、最後は福岡川崎で自刃して果てた。
山野内城は七北田川南岸の東へ伸びた丘陵に築かれている。
阿弥陀堂のある山を登っていくとすぐに城域へと入る。すぐ上の最高所の曲輪から東と南に曲輪があり、南東下に帯曲輪が二段付いている。『日本城郭大系』の縄張図にはさらに南西側へと遺構が続いているのだが、現状では土取によって消滅しているようである。
阿弥陀堂へ登る階段が工場の奥から付いている。この階段を上っていけば城域に入る。
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