天文6年(1537年)斎藤正義によって築かれた鳥峰城が始まりである。 斎藤正義は斎藤道三の猶子で関白近衛稙家の庶子と云われる。
斎藤道三の命を受けた正義が築城し鳥峰城と名付けた。正義は東美濃に勢力を伸ばして苗木城の遠山氏、加茂堂洞城の岸氏、加治田城の佐藤氏、久々利城の久々利氏らを配下とした。しかし天文17年(1548年)久々利城にて久々利悪五郎によって正義は謀殺された。
永禄8年(1565年)織田信長は東美濃に侵攻して森可成を城主とする。可成は織田信長の上洛の後、近江国宇佐山城主となったが元亀元年(1570年)朝倉・浅井連合軍に攻められ討死した。後を継いだ可成の次男長可は織田信忠に従って信濃へ侵攻し、武田勝頼が滅亡すると信濃四郡を加封されて信濃国海津城へ入城したが、本能寺の変で織田信長が横死すると金山城へ帰還した。
森長可はその後羽柴秀吉に従い、天正12年(1584年)小牧・長久手の合戦に従軍して討死し、末弟の森忠政が家督を継いだ。慶長5年(1600年)森忠政は信濃国川中島十三万七千五百石で転封となり廃城となった。
金山城は木曾川南岸に聳える標高280mの古城山の山頂に築かれている。現在は国指定史跡となって遊歩道が整備されている。
金山城は山頂の本丸を中心に西下に二の丸、北西下に三の丸、さらに西下に出丸、東に東腰曲輪、南東に左近屋敷といった曲輪群があり、多くの曲輪には石垣が用いられている。
本丸の北西側には多段になった石垣があり、これは岩村城などにも見られるように高石垣を組めず、段々畑のような形で多段に石垣を組むことで高い石垣を築いている。 本丸の西には大手枡形など折れを伴う虎口が続く。
東の搦手側は左近屋敷と呼ばれる曲輪があるだけで、これは森氏の重臣細野左近に由来する名称と考えられている。この左近屋敷の部分にも石垣が残っている。
西の出丸は駐車場となっている部分であるが、ここの石垣が一番見やすくなっている。
北麓の公園となっている部分には伝米蔵跡があり、ここも北側に高石垣があるが、現在は藪になっていて隅部がわずかに見学できる程度である。
城門(移築 城門)
裏城戸門(移築 城門)
城山への車道があり、出丸が駐車場となっている。ただこの道路は途中から駐車場まで夜間(pm17:00〜am8:30)通行止めのため注意が必要。
兼山歴史民俗資料館に金山城のパンフレットがある。
浄音寺の山門として裏木戸門が移築され、同寺には斎藤正義の墓がある。
犬山市の瑞泉寺に大手門が移築され山門として利用されたが、江戸時代に建て替えられて現存しない。しかし、もう一基城門が移築され、こちらは現存している。
最寄り駅(直線距離)