築城年代は定かではないが土岐康貞によって築かれたと云われる。 康貞は美濃国守護土岐氏の一族で土岐頼清の四男。三河守悪五郎と称した。その子行春の時より久々利氏を名乗ったという。
天文の頃には鳥峰城主斎藤正義に従っていたが、天文17年(1548年)斎藤正義を久々利城へ招き酒宴を催して暗殺した。一説に斎藤道三の命によるものともいわれる。
永禄8年(1565年)東美濃に侵攻した織田信長は金山城主として森可成を置き、久々利氏はその配下となったが、天正11年(1583年)森長可は悪五郎を金山城へ招いて酒宴を催し、その帰路悪五郎を殺害し、久々利城を奪って久々利氏は滅亡した。
久々利城は可児郷土歴史館の北にある山に築かれている。 郷土歴史館の建つ地は久々利城の根古屋跡と推測される場所で、江戸時代には千村陣屋が置かれていた。
久々利城は谷を挟んで東西の尾根に築かれており、東側が本丸などの主要な遺構が残る。近年、木々が伐採され、非常に見学し易くなっているが、今後もこの状態が維持されることを期待したい。
本丸は山頂部ではなく南に張り出した部分で、そこから南下に二の丸、三の丸とされる平段が続いている。その下方に大手の虎口があるが、虎口は内側が枡形になっており、常に二の丸、三の丸から見下ろされるようになっている。
本丸の北背後には二重堀切があり、それを越えて西尾根側に降りて行くと麓付近に土塁で区画された屋敷跡のような感じの曲輪がある。この曲輪の背後を堀切から横堀状になった堀で遮断され、さらに奥にも一条堀切がある。
可児郷土歴史館の無料駐車場が利用可能で、県道を少し東に歩くと登り口がある。
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