築城年代は定かではないが、応仁年間(1467年〜1469年)頃に斎藤妙椿によって築かれたと云われる。
斎藤妙椿は美濃国守護代斎藤宗円の子で出家していたが、兄斎藤利永の死によって還俗した。応仁の乱では西軍に属して活躍し和歌を好む文化人でもあった。応仁2年(1468年)東軍に属した東氏の篠脇城を攻略。このとき関東に下向していた東常縁は「あるが内に斯かる世ーしも見たりけり、人の昔の猶も恋しき」と詠んだ。人づてに聞いた妙椿は自分に詠を贈ってくれたら所領を返そうと約束すると、「吾世経むしるへと今も頼む哉、みののお山の松の千歳を」をはじめ十首の和歌を贈ったという。これを受けた妙椿は約束通り所領を全て返還したという。
城は可児川の北岸の高台に築かれている。周囲に空堀と土塁が残るが、内側は民家や畑として開墾されている。空堀は大半は竹薮に埋もれているが、規模が大きく良好に残っているようである。
国道21号線と可児川に架かる顔戸橋の北詰めの交差点を北の集落へ入ると案内石碑が建てられている。
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