文治元年(1185年)加藤次景廉によって築かれた。 加藤次氏は源頼朝の臣で遠山荘の地頭職を得てこの地に入り後に遠山氏を称した。
戦国時代の城主遠山景任は武田信玄の部将秋山信友によって攻められると織田信長に救援を求め、派遣された明智光秀と供に撃退した。 しかし景任が病死すると信長の六男御坊丸(後の勝長)を養子に迎えるが、再び秋山信友の攻撃が始まると遠山氏は御坊丸を甲府に人質として出し、信友と景任の夫人が婚姻して信友が城主となった。
天正3年(1575年)長篠の合戦で武田氏が敗れると織田信忠の攻撃を受け落城した。 替わって川尻秀隆が猿啄城から移って城主となるが、武田氏が滅亡すると甲斐一国の領主となり、替わって森蘭丸が城主となる。 蘭丸が本能寺の変で討死すると兄長可、長可が小牧長久手合戦で討死すると末弟の忠政が城主となる。
慶長4年(1599年)森忠政が信濃国松代に転封となると信濃国松代から田丸直昌が入封するが直昌は関ヶ原合戦で西軍に付き改易される。
慶長6年(1601年)上野国那波から大給松平氏が入封し、寛永15年(1638年)大坂の役の功により遠江国浜松に転封、替わって三河国伊保から丹羽氏信が入封する。 元禄15年(1702年)丹羽氏は御家騒動で越後国高柳一万石に転封となり、信濃国小諸から大給石川氏が入封し以後明治に至る。
岩村城は標高713mの城山山頂に築かれており、三大山城(備中松山城、大和高取城)の一つに数えられている。
山頂には本丸をはじめ、二の丸、三の丸などがあり総石垣の近世城館であるが、各尾根には堀切など中世の遺構も残る。また藩主は麓に近い居館に御殿を構えており、ここは現在歴史資料館が建ち、太鼓櫓などが復元整備されている。
本丸には折れを持つ埋門や東口門などの虎口があり、六段に積まれた石垣は岩村城のシンボルともいえるほどの存在感がある。この石垣はもともとは高石垣だったようであるが、崩落を防止するために改修されて現在の六段の石垣になったようである。
本丸と藩主邸の間は登城路が整備されている。この道を登っていくと一之門、二之門(土岐殿門)などの門跡があり、これられ門は近くの寺院に移築現存している。二之門からさらに進んだ所に畳橋跡がある。畳橋は手前のスロープから左に屈折して追手門へと繋がっていた橋で、正面には三重櫓、枡形に入ると大手楼門があった。
麓近くの藩主邸には歴史資料館があり、太鼓櫓などが復元、藩校知新館の門が移築されている。
移築藩校門(移築 城門)
一の門(移築 城門)
土岐二の門(移築 城門)
国道257号線から本丸のすぐ下にある出丸まで車で行くことができる。しかし、この城は麓から整備された旧登城路が現在も良く残され、屋敷跡などの遺構を見学しながら登る事ができるので、是非麓の藩主邸跡から歩いて登る事をお勧めする。
最寄り駅(直線距離)