永仁元年(1293年)鈴木高範によって築かれたと云われる。 高範は大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔という。
その後、佐竹氏の庶流野口館の野口景義が高久に移り、高久氏の祖となった。 景義は佐竹氏七代佐竹行義の子で、はじめ久慈郡馬渕村を領して馬渕氏を名乗ったが後に中郡野口に移り野口を称した。その後、景義は野口に子を残して自身は高久に移り、高久氏の祖となっている。
景義の子義有は高久式部大輔を名乗り、義本・義景と続く。高久義景は正長元年(1428年)の山入与義らが起こした山入一揆に呼応して挙兵し、大山因幡守義通によって攻められた。
天文12年(1543年)高久義貞・宮寿丸父子は佐竹義篤に従って奥州に出陣したが、その帰路陸奥国関山にて父子ともに討たれた。その後、高久氏は宮寿丸の弟義勝が継いだという。
高久城は那珂川に面した低地を東に見下ろす台地の南東端に築かれている。 台地の西側には八幡沢が深く入り込み、北を除く三方は急峻な地形になっている。
現在は南から坂を登り切った辺りに案内板が建っている。台地の上は畑や宅地、そして墓地などになっているが、空堀などが点在して残っている。