建武3年・延元元年(1336年)楠木正家によって築かれた。 南北朝時代南朝方の楠木正成の代官楠木左近蔵人正家が南朝方の拠点として瓜連城を築き、北朝方の佐竹氏などと対峙した。
瓜連城には楠木正家他、大掾高幹、那珂通辰など近隣の南朝方の勢力が集結した。一方北朝方の佐竹氏は主力が足利尊氏に呼応して各地を転戦していたこともあり、留守部隊である貞義は劣勢であった。それでも貞義は建武3年2月6日に瓜連城を攻めるなど南朝方に対抗したが、子の義冬などが討死して敗走した。居城の太田城では支えきれないと判断して金砂山城に籠もった貞義を、同年12月に南朝方の那珂通辰が攻撃したが天険の要害を巧みに利用した佐竹軍に敗れ、瓜連城に退く途中に退路を断たれ那珂氏一族43人(あるいは34人)は自刃して果てた。一方佐竹氏は貞義の子佐竹義篤が武生城から迂回して瓜連城を急襲し瓜連城は落城した。
瓜連城は久慈川に面した低地を望む台地の北端に築かれている。 現在の常福寺境内一帯が瓜連城跡で、隣にある保育園の北東側に特に遺構が良好に残っている。
現在残る遺構では広大な単郭の城で、保育園の裏から南北に空堀が残り、北の台地の中腹からは南東方向に横堀となって続いている。この上の曲輪には高土塁があり、北角に源太郎稲荷が鎮座する。一方本堂の南にある忠魂碑の南側にも空堀と土塁、櫓台らしき張り出しが残り、広大な曲輪であったようだ。