築城年代は定かではないが天仁2年(1109年)に小野崎通延によって築かれたと云われる。 小野崎氏は藤原秀郷流を称し、太田大夫公通が下野国佐野郷より常陸国大田郷にきて初代小野崎氏となり、その子通延も太田大夫を称している。太田城築城に関しては、この通延あるいはその子通成によるものとする説もある。
長承2年(1133年)には佐竹氏初代佐竹義昌が佐竹郷八ヶ村を領して馬坂城主となり、二代佐竹隆義は久安年間(1145年〜1151年)頃に太田城主小野崎通成に圧力をかけ、通成は太田城を明け渡して小野崎城を築いて退き佐竹氏の家臣となった。以後、佐竹氏はこの太田城を居城とし、天正18(1590年)に江戸氏の水戸城を奪い居城を移すまで代々の居城であった。
太田城は里川と源氏川の間にありり、南北に連なる台地の上に築かれている。
現在は宅地となっていてほぼ遺構は消滅している。 太田城の主郭は現在の太田小学校の辺りで、正門の少し中に石碑が建っている。主郭は東西二郭で構成されていたといわれ、西郭が太田小学校となる。 南にある若宮八幡宮の辺りが二郭で、北の太田第一高校付近が北郭、その間に三郭があった。