築城年代は定かではないが天神林刑部丞正恒によって築かれたと云われる。 天神林氏は藤原秀郷流という。
新羅三郎源義光の孫昌義は京より下向し、長承2年(1133年)馬坂城を奪いとって居城とした。この昌義が佐竹氏初代とされ、近くには佐竹寺がある。
二代佐竹隆義の時に太田城に居城を移し、馬坂城は庶流の稲木氏の居城となった。 稲木氏は久慈郡稲木村発祥で、隆義の次男義清(案内板には隆義の子秀義の子とある)が稲木次郎または小次郎と名乗ったのが始まりとされ、義清・義保・実義・義繁・義信(佐竹義胤の子)・盛義・義武・義信と続いたが、山入の乱に際して稲木義信は山入氏方について滅亡した。
その後、佐竹氏十三代佐竹義俊の子義成が天神林氏を称して馬坂城を居城としたが、義成・義益父子も山入氏に与して没落した。一説に天文12年(1543年)に義益の子という天神林義兼が陸奥国関山にて討死している。
馬坂城は佐竹寺のある高台から西側の久慈川に面した低地に張り出した丘陵に築かれている。
馬坂城は空堀で区画された曲輪が東西方向に連なり、字「御城」が主郭とみられ、ここに石碑と案内板が建っている。主郭の東西両側に空堀が残り、西側は「西城」と呼ばれ櫓台状の塚が残る。その西下には東西に長い曲輪があり、北から西側にかけて横堀が巡らされている。
県道61号線沿いにある佐竹寺を目指す。佐竹寺の東側から北をまわって西に進む集落内の道を進んでいくと坂を下りはじめた辺りに間坂薬師堂があり、ここから案内板まで道がある。
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