築城年代は定かではないが建久年間(1190年〜1199年)に佐竹義直によって築かれたと云われる。 佐竹義直は五代佐竹義重の二男で、額田弥次郎を称して佐竹額田氏の祖となった。
十二代佐竹義盛が嫡子なく、前関東管領上杉憲定の二男義憲を養子に迎えようと小野崎通綱や江戸通高が画策すると、応永14年(1417年)(一説に応永15年)佐竹額田氏十代義亮は一族の山入与義や長倉義景らと長倉城に挙兵してこれを阻止しようした。その後和睦となった。
応永30年(1423年)義亮は佐竹義憲と対立して攻められ討ち死にした。これによって佐竹額田氏は滅亡した。この戦いで功のあった小野崎通業の孫通重が額田城主となり、小野崎額田氏の祖となった。
天正19年(1591年)額田照通は伊達政宗に通じたとして佐竹義宣に攻められ額田城は落城、照通は城を脱して伊達政宗を頼って落ち、慶長7年(1602年)佐竹義宣が秋田へ転封となったのちに帰国し、額田久兵衛と称して水戸の徳川頼房に仕えた。
額田城は南の低湿地に面した台地の南端に築かれている。城域はとても広く外郭は西は引接寺、北は額田小学校、東は七鬼神社付近まで広がっていたと云われる。
主郭部は、南端の本丸を中心に北へ二ノ丸、三ノ丸と続き、西に阿弥陀寺のある曲輪がある。曲輪の間には深い空堀が巡らされているが、土塁は相対的に低く、本丸、二ノ丸付近は北側にのみ付いている。
入口は額田小学校の南にある県道62号線を東へ進んだ所にある額田地区交流センター、または、西の国道349号線沿いにある阿弥陀寺がわかりやすい。
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