延徳2年(1490年)小野崎通老によって築かれたと云われる。
延徳元年(1489年)陸奥の伊達・葦名・結城の軍勢が常陸へ侵攻してきたさい、主君の佐竹義治の身代わりとなって八百岐館主小野崎通綱は討死した。この功によって通綱の子通老は河合350貫、石神350貫の地を与えられ、石神城を築いて石神氏を称したという。
天文5年(1536年)石神通長のとき領地の境界を巡って争いとなり、同族の額田城主小野崎額田就通に攻められ石神城は落城した。その後、石神氏は帰城を許され、天正5年(1577年)には石神通実が三百六十騎を率いて佐竹義重に従い結城晴朝を授けた。天正12年(1584年)石神通信は佐竹義重に従って府中を攻め討死、通信の子石神通広のとき、佐竹氏に従って秋田へ移り廃城となった。
2012年11月現在、石神城の主郭部は村で定めた放射線量を超えているため、立ち入りを控えるように案内がなされています。この案内は平成24年5月の日付でなされておりますので、石神城を訪れようとしている方は、事前に状況を確認されたほうが良いようです。
石神城は久慈川南岸の台地の北端に築かれている。かつては城のすぐ北側を久慈川が流れていたという。現在は公園として整備されており、主郭部一帯の遺構は良く保存されている。
石神城の主郭部は北東端から南西側に向かって「遠見城」・「御城」・「iii郭」連なっており、大きな空堀によって区画されている。谷を挟んだ北側には北郭(領主の屋敷)があり、外郭は南西側に伸びていたという。
主郭は「御城」で、北東にある「遠見城」はその名が示すように遠見番が置かれた曲輪と思われるが、詰曲輪も兼ねていたようで、主郭側に高土塁があり、主郭とは木橋で繋がっていたようである。主郭と南西のiii郭とは土橋で繋がり、ともに同じくらい広大な曲輪である。空堀は曲輪と曲輪の間だけでなく、北や南の山腹にも設けられている。
公園の駐車場は北側の麓にあり、そこから遊歩道が付いている。 石神氏の菩提寺は南の長松院で墓碑がある。
最寄り駅(直線距離)