築城年代は定かではないが平安時代末期に常陸大掾氏によって築かれたと云われる。
常陸大掾忠幹の子宗幹が愛宕山城を築き、応永年間(1394年〜1428年)には陸奥の石川詮光の子茂光を養子に迎え大窪氏を称した。大窪氏は愛宕山城の後に天神山城、大窪城を築き佐竹氏の重臣となった。
愛宕山城は二つの川の間を東へ伸びた比高70m程の山に築かれている。
愛宕山城は東へ緩やかに傾斜の付いた尾根に空堀を設けて曲輪を区画していたようで、現状では三つの曲輪がある。一番東の低い曲輪は水道施設となっており、曲輪の部分は損壊しているが東側の道路に空堀の痕跡が残る。そこから一段高いところに最も広い曲輪があり主郭と考えられる。この主郭はきちんと削平されておらず自然地形を残し、曲輪内には三基の小さな円墳が残る。西側の空堀はやや大きく、中央で鈎状に屈折し横矢が架かるようになっている。この部分に虎口があり、その両側は円墳のようにも見える。西端の曲輪の西側にも空堀があり土塁が付いている。
県道から水道施設に続く車道があるが一般車両は通行できない。入口付近に路駐して歩いて行ける。
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