築城年代は定かではないが鎌倉時代に大掾氏が館を構えたのが始まりと伝えられる。
その後、小野崎氏系の久米氏が代々居城としていたが、筑前入道通室に子がなく、小貫頼重の子を養子に迎え通治と称した。その後、佐竹氏は山入城主の山入氏に対抗するため、久米氏を部垂城へ移して佐竹義治の子又三郎義武を久米城へ置いて守らせた。
文明10年(1478年)山入義知が久米城に攻め寄せ、城主の義武や小田野義安が討死し久米城は落城する。しかし、佐竹義治が自ら軍勢を率いて久米城を奪還し山入義知を討ち取った。奪還した久米城には義武の弟義信を入れ、この家系が佐竹北家と呼ばれて代々続き、佐竹氏の秋田転封に従って移り廃城となった。
久米城は山田川東岸の比高70m程の丘陵に築かれている。以前は藪化して遺構を確認しづらい状況であったと云われるが、現在は地元の方々によって整備されており見学しやすくなっている。特に城内の主要部を見て回るように見学コースが設置されており、初心者でも迷うことなく見学できるようになっている。
久米城は南北約700m、東西約300m程の規模で、鹿嶋神社の背後にある主郭(東城)を中心に北に西城と北の出城、南に南の出城などの曲輪群で構成されている。
城の中核部は東城と西城で間にある谷を挟んで南北に位置する。主郭とされる東城は最高所の曲輪から北東と南西に曲輪群を展開するが、北側は特に堀切や土塁、虎口などが確認できる。対して西城は堀切で区画された三つの曲輪からなり、北側に土塁を設けている。
北の出丸は西の城の北東端から尾根伝いに行くことができる。最高所から北東側に小さく段があり、南と北東の尾根を堀切で遮断している。
主郭から南へ行くと二重堀切で遮断した曲輪を経て南の出城に至る。この南の出城は南西側に横堀が付いており、四方の尾根も堀切で遮断している。
鹿嶋神社の参道入口に駐車場の案内と縄張図入りの案内板が設置されている。
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