築城年代は定かではないが延元年間(1336年〜1340年)に西野民部大夫温通によって築かれたと云われる。
その後、佐竹貞義の子七郎師義が国安に入り、山谷に住んだことから山入氏を称したとも云われる。山入師義は足利尊氏に従って転戦し、観応2年(1351年)には播磨国で足利直冬軍と戦って討ち死にした。
宗家佐竹義盛に子がなく、上杉憲定の子竜保丸を養子に迎えようとしたとき、山入与義、長倉義景などの有力支族がこれに反発し、長倉城に挙兵した。これ以降、山入氏は度々宗家の佐竹氏に反乱する。延徳元年(1490年)山入義藤は宗家の佐竹義舜を太田城から追い、代わりに太田城に入って佐竹氏の所領を牛耳った。義藤が没して山入氏義が家督を継ぐと、孫根城へ逃れていた佐竹義舜を攻めたが、金砂山城に籠もって抵抗した義舜に敗れた。永正元年(1504年)には義舜によって太田城を攻められ氏義は高部城へ逃れたが小田野義正によって捕らえられ山入氏は滅亡した。
山入城は山田川西岸に聳える標高185.6mの要害山に築かれている。現在は市指定史跡となり公園として整備されている。
主郭は山頂にあり、北東端に一段小高くなった櫓台状の土壇があり、そこから北東背後に伸びる尾根を三条の堀切で遮断している。主郭から南東へ伸びた尾根には段々と曲輪が連なり、堀切に土橋が架かっている。主郭部以外は草木が茂っている所が多く、遺構を確認するのが難しいが、南へ伸びた尾根にも曲輪と堀切を見ることができる。
県道33号と県道29号線の松平交差点から県道29号線沿いに西へ入って行った所に山入城への道標が出ている。ここから車道を登っていくと主郭まで遊歩道がある。車はアスファルト舗装された道があり、終点までいけば駐車できる。
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