治承4年(1180年)佐竹秀義によって築かれたと云われる。
佐竹氏三代秀義は父隆義が上洛していたことなどから挙兵した源頼朝に従わなかった。治承4年(1180年)頼朝が佐竹討伐の兵を挙げると、秀義は太田城を捨てて金砂山城に籠城しこれに対抗した。数千の軍勢で攻め寄せた頼朝軍であったが、要害堅固な金砂山城は落城しなかった。しかし、佐竹義季を内通させることに成功した頼朝軍は背後の間道から軍勢を送り込みこれを攻め落とした。
内通した佐竹義季はその後冷遇され、頼朝の勘気をうけて幽閉されたが、没後に上洛して山城国革島荘の下司職に補任され、革島氏を称した。
金砂山城を脱した秀義は後に頼朝に服従し、文治5年(1189年)の奥州合戦では先陣を賜って武功を挙げた。
建武3年(1336年)陸奥鎮守府将軍北畠顕家の上洛を阻止しようとして敗れた佐竹貞義は、楠木正成の代官で瓜連城に派遣されていた楠木正家によって攻められ、太田城を捨てて金砂山城に籠城した。この戦いでは南朝方の那珂通辰を討ち取るなどこれを撃退した。
明応元年(1492年)太田城を追われて孫根城に居た佐竹義舜は、山入氏義によって攻められると孫根から金砂山城へ移って籠城した。ここでも天険の要害をもって攻め来る軍勢を討ち敗って撃退し、永正元年(1504年)には太田城の奪還に成功した。
金砂山城は標高412mの山頂に築かれていた。西金砂神社が祀られた山で西は特に絶壁となり天然の要害である。城郭遺構としては特にめぼしいものはないが、鳥居の向にある案内板のある所が館跡とされ、広い土壇として残されている。
西金砂神社まで車道がある。そこから参道を登れば山頂の神社に至る。
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