常陸 金砂山城ひたち さなさざんじょう

城郭放浪記


△トップに戻る

TOP > > (常陸国/茨城県) > 金砂山城
Tweet
常陸 金砂山城の写真
掲載写真数
形態
山城(412m/-)
別 名
金砂城,西金砂山城
文化財指定
なし/不明
遺 構
城 主
佐竹氏
歴 史

治承4年(1180年)佐竹秀義によって築かれたと云われる。

佐竹氏三代秀義は父隆義が上洛していたことなどから挙兵した源頼朝に従わなかった。治承4年(1180年)頼朝が佐竹討伐の兵を挙げると、秀義は太田城を捨てて金砂山城に籠城しこれに対抗した。数千の軍勢で攻め寄せた頼朝軍であったが、要害堅固な金砂山城は落城しなかった。しかし、佐竹義季を内通させることに成功した頼朝軍は背後の間道から軍勢を送り込みこれを攻め落とした。

内通した佐竹義季はその後冷遇され、頼朝の勘気をうけて幽閉されたが、没後に上洛して山城国革島荘の下司職に補任され、革島氏を称した。

金砂山城を脱した秀義は後に頼朝に服従し、文治5年(1189年)の奥州合戦では先陣を賜って武功を挙げた。

建武3年(1336年)陸奥鎮守府将軍北畠顕家の上洛を阻止しようとして敗れた佐竹貞義は、楠木正成の代官で瓜連城に派遣されていた楠木正家によって攻められ、太田城を捨てて金砂山城に籠城した。この戦いでは南朝方の那珂通辰を討ち取るなどこれを撃退した。

明応元年(1492年)太田城を追われて孫根城に居た佐竹義舜は、山入氏義によって攻められると孫根から金砂山城へ移って籠城した。ここでも天険の要害をもって攻め来る軍勢を討ち敗って撃退し、永正元年(1504年)には太田城の奪還に成功した。

説 明

金砂山城は標高412mの山頂に築かれていた。西金砂神社が祀られた山で西は特に絶壁となり天然の要害である。城郭遺構としては特にめぼしいものはないが、鳥居の向にある案内板のある所が館跡とされ、広い土壇として残されている。

案 内

西金砂神社まで車道がある。そこから参道を登れば山頂の神社に至る。

最寄り駅(直線距離)
5.4km 中舟生駅
5.7km 山方宿駅
5.9km 下小川駅
7.2km 西金駅
7.9km 野上原駅
所在地/地図
茨城県常陸太田市上宮河内町(西金砂神社)
付近の城(直線距離)
1.9km 常陸 天下野館
3.3km 常陸 中染要害山城
3.5km 常陸 武生城
3.7km 常陸 曽目城
3.8km 常陸 西染城
5.0km 常陸 町田城
5.7km 常陸 山方城
5.8km 常陸 町田御城
6.5km 常陸 西河内館
6.7km 常陸 十殿坂館
6.8km 常陸 山入城
7.1km 常陸 龍ヶ谷城
7.6km 常陸 棚谷城
7.8km 常陸 利員龍貝城
8.1km 常陸 松平城
8.3km 陸奥 頃藤要害
8.5km 常陸 和田小屋城
8.7km 陸奥 頃藤城
9.4km 常陸 下檜沢向館
9.7km 常陸 大中館
9.8km 陸奥 頃藤古館
9.8km 常陸 大門北城
10.0km 常陸 大門南城
最終訪問日
2014年11月
TOP > > (常陸国/茨城県) > 金砂山城