築城年代は定かではないが承久の乱(1221年)以降に河崎頼幹によって築かれたと云われる。 頼幹は水戸城主大掾馬場資幹の子孫とされるが、その繋がりは詳らかではない。
その後、一時佐竹氏の家臣大塚豊前守が在城したが、長禄年間(1457年〜1460年)には小貫頼定が部垂城を攻め落として居城とし、頼通、俊通と小貫氏が三代続き、俊通は佐竹氏の宿老となっていた。
享禄2年(1529年)佐竹義篤の弟で宇留野城主の宇留野義元が部垂城を攻め落として小貫俊通は討死、義元は部垂城を居城として部垂義元と名乗った。佐竹当主の兄義篤と弟義元が対立した部垂の乱は、天文9年(1540年)部垂城が落城して義元は自刃して幕を下ろした。
部垂城は現在の大宮小学校一帯に築かれていた。久慈川による段丘を利用した城であったという。
遺構は殆ど消滅して、わずかに土塁などが残る程度だという。小学校の校門脇に部垂城の案内板と石碑があり、その脇に佐竹義元の墓碑が建っている。