元弘2年(1332年)佐貫氏によって築かれたという。 その後、穂高平治の居城となった。
天正年間(1573年〜1592年)頃には大山城の出城として土丸の砦と呼ばれ、大山氏と小場・石塚連合軍が戦った頓化原合戦は、この砦の西方が戦場となった。
平治館は那珂川に面した低地を東に見下ろす台地の東端に築かれていた。 台地の東端部がやや独立した地形となっており、西側には空堀が巡らされていたと思われるが、現在は道路などとなって明確ではない。この西側に唯一遺構らしき土塁が残っている。
北方小学校から東へまっすぐのびた道が台地を下りはじめる辺りに案内板が建っている。
最寄り駅(直線距離)