永暦元年(1160年)戸村能通によって築かれた。 能通は藤原秀郷流の那珂氏三代通兼の子で、大井郷戸村に居城を築いて戸村氏を称した。
戸村氏二代の戸村小三郎通基は、承久の乱(1221年)で北条泰時に従って宇治川の渡河合戦で敵三人を斬るなどの戦功を挙げた。 建武3年(1336年)戸村氏六代の戸村又五郎は宗家那珂通辰とともに南朝方として、北朝方の佐竹貞義の籠もる金砂城を攻めたが、天険の要害を巧みに利用した佐竹軍に敗れ、敗走中に退路を断たれ那珂氏一族とともに自刃して果て、戸村氏は滅亡した。
くだって佐竹氏十二代佐竹義人(義憲)の子義倭は、はじめ大掾満幹の養子となって大掾憲国と名乗っていたが、大掾氏の家督は満幹の弟秀幹の子頼幹が継ぐこととなり佐竹に復し、寛正元年(1460年)那珂氏系戸村氏の古城である戸村城を修築して居城とし戸村氏を称した。この佐竹系戸村氏は以後代々続き、慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田へ転封なるとそれに従って移り、寛文12年(1672年)には横手城代となっている。
戸村城は那珂川の東岸にある低地に面した台地の西端に築かれていた。
戸村城のあった辺りは宅地などとなっているものの「北城」・「御城」・「南城」と呼ばれる曲輪があり、土塁と空堀が今でも部分的に残っている。「南城」は那珂氏系戸村氏時代、「北城」は佐竹系戸村氏時代の主郭といわれている。
県道102号線沿いの「戸」集落にある戸村観音文殊院を目指すのが良いだろう。そこから県道を少し北へ行くと戸村不尊寺があり、そこから西の集落内に入る。まっすぐ西へ進んでいくと峯村接骨院があり、その先に案内板が建っている。
最寄り駅(直線距離)