築城年代は定かではない。 永仁5年(1297年)宇留野大輔阿じゃ(門に者)梨宏瑜という宇留野氏を称する一族が居たようである。
その後、佐竹義俊の庶子で出家して天鳳在虎と称していたものが、還俗して宇留野に住み、宇留野義公と称して宇留野氏の祖となった。
享禄2年(1529年)佐竹義篤の弟で宇留野城主の宇留野義元が部垂城を攻め落とし、部垂城を居城として部垂義元と名乗った。天文9年(1540年)佐竹義篤が部垂義元を攻め滅ぼしたとき、宇留野源兵衛は義篤に味方して義元を攻めている。
宇留野城は南へ伸びた段丘を利用した城で、東西に走る空堀を三箇所設けて、南から御城、中城、外城と三つの曲輪を配していた。
南端の御城が主郭で日向神社の境内となっている。北側の中城、外城との間には空堀が良好に残っており、空堀に面して土塁が付いている。東山腹、西山腹にも一部土塁があり、横堀状になっている。
谷を挟んで西側の住宅地になっている部分に居住空間があったようで、部分的に土塁が残されている。
日向神社の境内まで車で入ることができる。入口と境内にも案内板が設置されている。
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