築城年代は定かではない。 豊地城の依藤氏の詰城とも考えられているが詳らかではない。 永禄年間(1558年〜1570年)の城主は別所重棟、あるいはその家臣吉田伊賀守であったという。
屋口城は豊地城の南方、南から北へ伸びた丘陵の先端に築かれている。城山は山頂の先端から東西両側へと尾根が分かれる地形をしており、その中央に位置する主郭から北西方向へ二郭、三郭、北東側にも一郭付いている。
主郭は北端頂部にあり水道施設による破壊を受けているものの、南から東にかけて半円状に土塁が残っている。
北西下の曲輪は周囲を土塁が巡り、南北とも主郭側に虎口がある。北の虎口は現在の参道に付いたものであるが、南の虎口は外側が土橋状になり、土塁の下は横堀状の深い堀になっている。
さらに北下の曲輪は南西側に土塁が付き虎口になっている。ここも外側に土橋が架かり両側は横堀状の堀になっている。
県道から山の方へと通じる農道の終端から神社への参道があり、主郭まで通じている。
最寄り駅(直線距離)