築城年代は定かではないが応仁年間(1467年〜1469年)頃に冷泉政為によって築かれたと云われる。 応仁の乱によって京が荒廃すると、下冷泉家当主冷泉政為が細川荘に下向して築いたのが細川館と云われる。
政為以後、冷泉為孝・冷泉為豊・冷泉為純・冷泉為勝と続いたが、天正6年(1578年)別所長治の家臣で中村城主の岡村氏に攻められ冷泉為純は討死、長子為勝は救援に駆けつけた小沢城主依藤太郎左衛門とともに依藤野へ逃れたが自刃して果てた。
次男惺窩は在京しており難を逃れたが、自身は家督は継がず本姓藤原惺窩と称して学問の道に進み、弟為将を下冷泉家当主として再興した。
細川館は美川東岸にあり、西へ張り出した丘陵の先端に築かれていた。 先端は公園となり藤原惺窩の銅像とともに下冷泉家に関する案内板が設置されている。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」によれば、この公園になっている西端として西・中・東の三郭があり、土塁や空堀で区画されていたようであるが、現在はそれらしき遺構は見あたらない。
南方にある大雄寺が冷泉家の菩提寺である。 冷泉為勝と依藤太郎左衛門の自刃の地と墓の位置は小沢城を参照。(地図)
県道20号線細川町金屋付近に大雄寺と藤原惺窩への道標が出ている。
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