築城年代は定かではない。一説に永禄4年(1561年)に有馬則頼が淡河城の向城として築いたとも云われる。
天正7年(1579年)織田信長は越前衆、丹羽長秀に淡河城の付城構築を命じている。このとき天正寺城も付城の一つとして利用され、杉原七郎左衛門家次が在陣したという。
天正寺城は論破山から南へ派生した天正寺山に築かれており、現在は愛宕神社が祀られている。
山頂の愛宕神社境内となっているところが主郭で北西下に二郭がある。主郭から二郭に通じるスロープは遺構なのか改変なのか悩ましいが、微妙に二段になり、主郭へは右折れで入ることになる。
曲輪IIは現状北端部が削られ、土橋の架る堀切3へと道が通じているがこれは後世の改変で、本来は東のAに入っていたのではないだろうか。
主郭から北へ伸びた尾根は二重堀切1、曲輪IIから北へ伸びた尾根も堀切3と堀切2で遮断するが、堀切2は東側に竪堀として伸びていない。北へ続く谷間には溜池が作られ、山道にもなっている堤が後世作られたことで改変されていると考えられる。曲輪IIの西側面には三条の畝状竪堀群4があり、大手は西の谷筋から登っていたと考えられる。
主郭から南へ伸びた尾根は急坂であるが、腰曲輪IIIとIVが存在し、IVの東端には竪堀5がある。現在の参道はこの曲輪を急な階段で登るように付けられている。南端には西麓の方に伸びる巨大な竪堀状地形6が存在するが、遺構かどうか判断が難しい。
参道入口が南東麓にあり入口に駐車可能である。
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