築城年代は定かではないが淡河氏によって築かれたと云われる。 淡河氏は鎌倉北条一族で副執権北条時房の所領であった。
南北朝時代には播磨守護赤松則村(円心)と対立して攻められ落城している。 文明18年(1486年)には三木城主別所則治に属し、別所氏に従って織田信長の命により各地を転戦した。 しかし、天正6年(1578年)別所長治が毛利と結んで織田氏と対立するようになると淡河氏もこれに同調し、羽柴秀吉によって三木城が攻撃されると、淡河城も同様に攻められる。 時の城主淡河定範は敵陣に牝馬を放ち、敵を敗走させた後、城に火を放って三木城へと入った。
別所氏が滅ぼされると淡河城は有馬則頼に与えられ、所領も一万五千石となった。この有馬氏時代に現在の縄張に改修されたと考えられる。有馬氏は関ケ原合戦後に三田城に加増転封となり、淡河城は廃城となった。
淡河城は河岸段丘の東端部に築かれており、道の駅「淡河」のすぐ南側に位置する。
河岸段丘の北端部、麓から櫓が見えているところが本丸で、南背後の稲荷神社が祀られた高土塁があり天守台ともされている。西側にも一部土塁が残り、稲荷神社の鳥居のあるところが大手門跡とされる。本丸を大地から切り離すようにL字に横掘が巡っており、一部土橋が架る。
本丸の南に隣接して竹慶寺跡があり、ここに淡河家廟所がある。二の丸は本丸の南西外側であったが、圃場整備などによって遺構は失われている。
櫓(模擬 櫓)
道の駅「淡河」から整備された遊歩道が本丸まで続いている。西側から車道もあるが、駐車場はない。
最寄り駅(直線距離)